Facebookは離れたところに住んでる友人・知人と意見を出し合うのにはすごく便利なのだけれど。
他の人たちの提案や課題をリアルタイムで知ると、そこにどんどん引きずられてしまって、自分に余力がどんどんなくなるダメなループに入っちゃったので、1年以上離れております。
『何をしたら、何をしなかったら自分は生きていけるのか?生きるのがイヤにならないのか?』ってところに集中してました。
https://twitter.com/consentproject/status/900814070407757824
こういうことをしてた。
(わたしの英語読解力が間違ってなければコレです)
” wherever you are in the process is okay.” がポイント。
今年はどんなふうに記念日反応が日常生活に影響するのか心配していましたが、さすがに10年以上この日を通って生きていたらなんかちょっと意味が変わってきた。
PTSDについては24時間365日体制で共に生きるしかないので、主治医や看護師・介護職のひとたちにフィードバック等を続けています。
— 秋日子 (@totheray) 2017年6月22日
ちょっとでもPTSDに対応できる人たちが増えて欲しいからです。 https://t.co/JeIxHIsGA0
私が書き出しているコーピング(状態悪化等の際の対処行動)はどうも医師・看護師らの予想を超える内容だったと判明。
— 秋日子 (@totheray) 2017年6月22日
いや。自分でやるしかなかっただけだ。必要に迫られたからこその苦肉の策だ。これは万人に通用するものではないことはハッキリ伝えました。やらなくていいことの方が多い気がする。
11年前と大きく変わったのは自分を「病人、障碍者という位置づけ」「犠牲者、被害者という位置づけ」を放り投げたこと。
— 秋日子 (@totheray) 2017年6月22日
私にはできることと、無理すればやれること、どう頑張ってもできないこと、トラウマすぎて出来ないことがあるだけで、それはもはや得手・不得手の話と同義なのだと気付いた事。
何らかのサポートを得ないと安定できない状態になったとしても、それは私が完璧に無力である証明にはならない。
— 秋日子 (@totheray) 2017年6月22日
そういう状態であっても、私は他者にとっての加害者になりうる可能性すら持ち合わせているということ。
記念日反応の波。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
以前は『ただただ嫌で怖くて日がやってくる』ととらえてた。
やっと、「この日の前後を自分の定点や基準値として考えたらどうなる?」と思えるようになってきた。
やっとはっきり断言できる。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
わたしはあの日、病気を治したくて入院したのではなかった。
わたしの周りが、わたしの内側と、全く違う速度で動いていく。
どんなに必死になっても、周りの速度においつけない。
ずっとずっとその感覚は10代からあった。
→ もう頑張れない。もう走れない。もう走りたくない。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
何をしても『足る』ことはないのに。何をしても追いつけないのに。
自分といういきものの全部を止めてしまいたかった。一秒でもはやく。
→
→ そこにたまたまわたしの目をみて「ここにおいで」と声をかけてくれた人が居た。その人の声は命令ではなかった。有無を言わせない指示でもなかった。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
そんなふうに「ここにおいで」と言ってくれる人は居なかった。
→
→ だからわたしは着いて行った。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
そこがたまたま、病院であっただけ。その人が、たまたま医師だっただけ。
医師だったから、病院だったからそこに行ったんじゃないんだ。
→
→ のちのちになって「適切な対応をうけられたんだね」と言われたことがあった。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
ずっとそれが何のことだかわからなかった。適切って何?対応って何?
→ そこに行く道中の電車の窓、同じ電車に居るひとたち、強い日差し、反射する光。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
わたしはどこに行くんだっけ。 なんでこんな重い鞄を持ってるんだっけ。
何をしているのか自分で理解してなかった。理解しようという気力すらなかった。
→
→
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
たどりついたときに、「暑い中たいへんだったでしょう」「ひとりで来れたの?」と声をかけられ、重い鞄を持ってくれたひとたちがいた。どうして鞄を持ってくれるんだろう?
ここを好きに使ってね、と言う人たちが居た。好きに使う?何を?誰が?
→
→ カウンセラーの先生が、廊下を走ってきた。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
「あなたがね、ひとりでここまで来れたって聞いてね、顔をみたかったんだよ」と言われた。
そんな人がこの世にいるなんてと驚いた。
→
→ そこで生活をするようになって、何人かのひとたちが声をかけてくれることや、ご飯をたべられたかを気にしてくれる毎日になった。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
それが、わたしにはまるで嘘みたいに幸せな事だった。ここに来てよかったと少しずつ思うようになった。
けれど、それもたった1本の電話で木っ端微塵になった。→
→ 未だに、電話するんじゃなかったとあの頃の自分を許せなくて仕方が無くなる。あんな電話で、わたしはあの人に認めてもらえると思ってた?
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月8日
馬鹿にも程が在る。
記念日反応のつづき。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月9日
適切な医療をうけられた<<<<< 当然のようにわたしを人間として扱う人たちがいる場所で生活できた
私にはあれは単なる医療や治療ではなかった。そこにようやく気付いた。
→わたしは「死にたくて仕方が無い気持ちに押しつぶされるのがキツくて耐えられなくなってきたら働く」という選択しかできない。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月9日
生きていくために働くというのが、できない。
→
→「生きていくために働く」という感覚に、無理矢理合わそうと必死にならなくていいんだと思った。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月9日
だって「生きていくために働く」って、わたしには死ぬ動機にしかならない。そこまでして生きることに拘れない。
それに弟に、もう二度と遺体の身元確認をさせたくない。→
→ 虐待やDVの中で生きることはとてつもなく辛かったけれど、ある意味、わたしにはそれらはとても「わかりやすい世界」だった。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月9日
人間として扱われていない辛さは耐えられた。
少なくとも対象物としての存在としては認められているから。
→
→
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月9日
それまでは、対象物ですらなかった。
居ても居なくてもどうだっていい空気以下のナニカでしかなかった。
その方が、ずっとずっと、苦しい。
→
この季節になると
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月16日
あの病棟で
あの病室で起きたいろいろな景色が
夏日の反射の欠片と共に
無声、無音のスライドショーみたく目の前を流れていく
何の前触れもなく
今、起きている現実の音や声や視界に
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月16日
そのスライドショーはダブって自動再生されるから
自分が今、立っている床は一体何時のどこなんだろう、どっちなんだろうって混乱して固まる
何年経ってもこれは不意に起きる
ただ変わったなと思うのは、以前なら混乱してフリーズしたままか、泣いたり自分を傷つけないといつまでも動けなかった。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月16日
今は、身動き出来ない時間が随分短くなった。
慣れたのもあるけど、対処法が増えたのもある。
慣れることが出来ないままなのは、スライドショーのリアルさ。
今年の精神的・身体的大波に対する主治医との総括
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月18日
(但し現時点でのひとまずのまとめ)
1)今の自分の立ち位置(身体的・精神的・社会的など色んな立ち位置)から、過去のある特定の出来事を改めて観測する機会だと捉えて、自己分析に回すと、記念日反応も無駄にならないよね。
→2)突然とんでもない当たり物件(相談先、支援先等)をひいてくることについて。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月18日
まずその大当たりが入っている『人生ガチャ』を引かせてもらえる権利を獲得するのに、必ず七転八倒なしんどさが対価として必要。
今日までのわたしの人生はまちがいなく博打。
→3)人生は理不尽で、博打なので。いつもいつも前向きに生きてなくてはいけないとか、何らかの困難を乗り越えねばならないとかいう課題を自分で自分に科すことじたいがそもそも無茶で無謀である。よって、結果が失敗・未達成に終わったとしても自分がやれることはやった!と言い切れるならそれでOK
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月18日
→4)理不尽で博打な人生の中で、棚からぼた餅なことが起きたら全力で受け取れ!これがまだできません。なんか裏があるんじゃないかと思ってしまう思考のクセがとれない。そこは今後も課題です。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月18日
→5)博打要素が減っている日常に気付いた時も、その幸運を全力で受け取って堪能すべし。頑張るな。人の役に立とうとするな。人の役にたったとしても、自分の役に立ってないなら、プラマイゼロどころかマイナスでしかないことにいい加減気付け、わたし。
— 秋日子 (@totheray) 2017年7月18日