わたしは性暴力・虐待サバイバーです。自死遺族でもあります。
このブログは、PTSD、自傷行為、うつ病、パニック障害、アルコール依存、摂食障害などの症状と共に生きている私の自己観察記録が主です。
わたしが通院を始めたのは、過呼吸発作でした。
電車やバスで続いて起こり、何度も救急病院に運ばれては異常なし、を繰り返していました。
その後、コレは一体何なんだろう?と本屋を回ってこの本を見つけました。
治したかったし、中・高校生の時から何度となく希死念慮があったので、良い機会だから診察を受けてみようと思いました。
それを機に、自分の心の中や過去の事を話して整理していく生活が始まりました。
正直、すごいしんどいです。
でも、あの時、生活費を削りに削って病院に行った事を、今の私は後悔していません。
医師に治してもらおう、と他力本願の頃もありました。
薬を飲んでいなくてはどうにもならないと思い込んでいた頃もありました。
発作さえなければ、とか、早く消えてしまえば苦しまないで済むとか、そればかり考えていた頃も在りました。
でも今、改めて自分を振り返ると、鬱病も摂食も自傷も、全部『医学』という位置から私をカテゴライズした場合のラベリングであって、私という人間が生きていく為に何をどうしたらいいのか、私自身が真剣に取り組んでいた証拠なのだと気づきました。
生き辛さは今でもまだあります。
でも、生き辛いこと=弱さではないと思います。
生き辛いと感じてる自分が居る事を直視して認め、じゃあ自分が少しでも生き易くなるには何が必要なんだろう?と、自分に問い、医師に問い、カウンセラーに問い、生活の中で掴んできたからこそ、今の私が居ます。
まだPCは高級品で、ケータイも今みたいな機能が誰でも使えるような時代じゃなかった。
なので、具合が悪くなった時に頼れる情報は、『体験したことがある人の本』『この領域の病を専門にしている医師・カウンセラー等による本』。
そして自分が直接診てもらっている医師・カウンセラーに聞くしか情報を集める手段がありませんでした。
あと、わたし自身は「闘病」してるつもりがあんまりありません。
理由は、闘ってどうこうできるもんじゃない部分があることを知ったこと。
「病気だ」と敵視しても、結局、その病気といわれてるものを持ってるのは自分なので、その自分が受け入れるしかないことは受け入れて、しがみついてる要らないものを捨てていくしかないんだと思うからです。
例えばですけど。
自傷行為がダメだ・おかしい・間違ってる、と批難したところで、自傷は自傷として、現実にあるのです。うつ病になったことをいくら責めても、その症状は既にそこにあるのです。
虐待や性暴力に関して言うならば、『間違っている』『犯罪だ』『こんなことはおきてはならない』と、いろんなところで言ってもらえるようになってきた気がします。
そういう風潮になってきたのは。既にあったことをなかったことにできないと思った当事者らが、それぞれに「話してなかっただけで、実はそこらじゅうに既にあるモノなんだよ。」という告白を続けてきてくれたからに他ならないと思っています。
既にあったことを、なかったことには、出来ません。
既に知ってしまったことを、知らないことには出来ません。
同時に、これまで何事も無く生きてこれた人が、このあともそのまま何事も無く生きていける保証も誰にもできないのです。
時々、「あれ?自分のPTSDを誰よりも批難してるのは、わたし自身だ」と思う時があります。みんなが~という思考回路に迷い込んだ時って、「みんなって誰よ?」と自分に問います。
『みんながダメだという=だからわたしはダメ』。
それでいいのか、わたし? どこの誰だかわかんない人にダメって言われたら、もう自分は息をするのも許されないクズなのか?
ダメ出ししてきた人は、「もうホントにこれしか今はできないんだよ」っていうあの悔しさと苦しさを知ってて言ってるのか?
わたしの代わりに、わたしの人生を全部背負う覚悟で言ってるのか?
そうじゃないなら、そんな野次馬さん達に、○か×かの審判する権利を与えてあげなくていいじゃん。そう思うようになりました。
それとこれは私の性格なのだなとつくづく思ったことですが。
私は、100%嫌いな事をやるしかない時、「何が何でも1%くらいは面白い・楽しいと思えるような部分を見つけてやる!」という謎の意地を持っています。
自分では、この謎の意地こそが生き延びられた要因だと思っています。
また、うちの家族は、治療に関しても、被害後のサポートについてはほぼノータッチですし、理解してもらえていません。
後になって母と関係再構築しようと話し合ってから少しづつ取り組んでますが、100%理解してもらえることはほぼあり得ないと思っています。
なので、「家族に○○してもらって・・・」っていう内容は殆ど出てこないと思います。
家族が絡んでくると、ものの見事にわたしがつかみかけた内容を吹き飛ばされるので、回復どころじゃなくなる場合が多いからです。
かつて私自身、たくさんの「サバイバー当事者の人たち」を、本やブログで知ることができたおかげで、今日までなんとか生きてこれました。
その方たちには及ばない質だとは思いますが、自分が体験した限りのなにかを、ここに残してみたいと思います。