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いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

2010/01/24 自死遺族

にほんブログ村自死遺族のカテゴリに登録しているのは、私は実父を自死で失っているからです。

あと、友人も数名、自死でした。

そのたびに、とてつもないやるせなさと喪失感で、拒食症も失声症自傷も、何もかもぶり返しました。

今でも「あの時、私にできることは本当になかったのか?」という自問自答の渦に飲まれてしまうことがあります。

でも、それはわたしが彼らを愛していたからこそなのだと、そう言い聞かせて、生きています。


実父の自死は、私の中で、一番「どう反応していいのかわからない自死」でした。

理由は、実父が私にとって性的虐待の加害者当人だったからです。

私が18歳の時、父の会社が倒産。同時に自己破産し、母と父は離婚しました。

膨大な借金だけでなく、父は架空事業の立ち上げに知人も身内も加担させており、そのことで裁判にもなっていました。

はじめは父の言い分だけを聞いていたので、私も母も父が騙された側なのだと思っていました。

時間が経つにつれて、父がやってきた事が少しずつ私たちにもわかってきて、唯一知っていた父の携帯電話に「お願いだから皆に謝って欲しい」と連絡し続けていたのを覚えています。

でも、結局父は誰にもまともに謝罪せず、居所も分からず、ある日、突然、父の借金の催促状が私に届いたことで、父の自殺を知りました。

既に荼毘に伏されていて、どういう形で死んだのかについては、当時、パニック障害鬱病・拒食症で通院していた私には知らされませんでした。
今もまだ、父の死の詳細を私は知りません。

何度となく説明を求めましたが、それまでに2,3度自殺を図ってICUに入った私には言いたくないと突っぱねられました。

同じくらいの時期に、私は主治医から「あなたが経験したことは間違いなく性的虐待だった」と言われ、PTSD診断が下りたところだったので、余計に私は混乱しました。

実の娘なら、父親が死んだら悲しんで泣く筈だ。
何故、私には怒りしかないのだ?
私は、できることなら、何が何でも父を探し出してぶん殴りたかった。
でももう押し込めてきた怒りと悲しみのの行き場はどこにも無く、たった一言の「ごめん」も要求できない。

何をしても手の届かないところに、サッサと逃げていった父の死を、私はどうしてもすんなりと悼むことができなかった。
自死遺族と名乗ってもいいのか。私は未だに迷いがある。

何が起きているのか分からなかった、あの小さい頃の私は、ちゃんと父が好きだった。

父に見捨てられた、もう私は父にとって「可愛い娘」ではなくなったのだと思い知ったのは、ずっと後の別の事でだった。

皮肉なことに、私の本好きと図書館通いは、父から教えられ受け継いだものだった。

それがなければ知らずにすんだこともある。でも、それがあったから生きてこれたのも事実だ。


寒い季節になると、私の中で、父の死と友人達の死がくっきりと浮かび上がる。

 

生きることは、自分の過去も未来も、自分自身でしか背負えないことを思い知ることだ。

食べて、眠って、泣いて、笑って、時間を重ねるのを続けていくことだ。

羽交い絞めにしたとて、恐らくどこかで逝ってしまっただろう人が居る。

彼らが彼らの「今と、これから」を捨てると決めていた、その姿を知っている。

生きろという言葉が、無責任に聞こえてしまう日々があることも知っている。

それでも、「もう居ないのだ」と納得することを、極度に恐れる『わたし』が居る。

いつか、見送ることを、わたしが恐れなくなりますように。

彼らが居た日々を、彼らが逝った日を、そのまま受け入れられる日が来ますように。