わたしは大学で美術系専攻でした。
その受験のために、芸大・美大予備校に通っていたのですが、未だにそこで学んだ『ものの見方』『考え方』が、ふとした時に、とても自分に深く根付いているなと思うことがあります。
芸・美大予備校業界の中では、かなり変わった位置づけをされていた所でした。
確かに、変わってました(苦笑)
多分、あの予備校と同じことをやってるところはそうそう無いでしょう。
基礎として外せないのはデッサン(素描)です。
瓶や果物やら石膏像を目の前に置いて、それを紙に描くわけですが。
実はその行為じたいが、無謀ともいえるほどとんでもないことなんです。
(絵心がどうのという次元の話じゃないですよ)。
なんでとんでもないのかというと。
目の前にある林檎は、立体です。3次元のものです。
それを紙に描くというのは、3次元のものを自分の眼というフィルターを通して、紙の上で平面(2次元)にしてしまおうということです。
その2次元は、あくまでも3次元の立体を、ある一方向から見て理解できたことを表現したにすぎません。
でも、描いている人自身は、360度からみた林檎を理解しようとしなければ、立体を平面にすることは出来ないんです。
省略していく過程で、どんな些細な部分であっても嘘をついて描いてしまうと、もうそれは目の前にある本物の林檎と全く違うものになってしまう。
よく「輪郭線」と呼ばれている部分こそが、とてつもない数の面が、とてつもない数の方向に向いている部分なので、そこを1本の線でぐるん、と描いてしまうことなど、絶対に出来ません。
それがデッサンなんです。
16歳くらいの時にデッサンを体験した時、どうやったら上手く描けるんだろうとしか思っていませんでした。
でもその予備校で、「自分が何をしようとしているのか、分かってるのか?」と問われ、何言ってんだこの人、と思っていたんですが(苦笑)
ある日、上に書いたような内容に気付いた時、鳥肌が立つくらいの衝撃を受けました。
自分に、モチーフに、嘘をつかない・誤魔化さないってことは、ものすごい集中力と観察力が必要なのだと。
何がどう働いて林檎はこの形になり、普段、何故わたしは何の疑問も持たず『林檎』だと思っていたんだろう、と思いました。
それだけではありません。
そこに確かに存在している林檎を、100%紙の上に表現しようとするのは不可能なことなのだということにも気付きました。
粘土で作るにしても、林檎そのものには決してたどり着けない。100%を目指しても、90%、80%のものしか人間は作れないんです。
同時に、その林檎と同じ林檎はこの世にはありません。
今、自分が向き合っている林檎は、どんなに他の林檎と似ていても、唯一無二のものです。
この考え方は、のちに、わたしが通院を始め、自分の病状と向き合う時に、大いに役立ちました。
完璧であること、そのために自分に厳しくあることを目指していたけれど、実は『完璧なもの=ただそこにあるもの』だった。
それをまずは受け入れてみる。
そこから自分がなりたい姿を想像して、そこに向かって道を探り、『ただそこにある自分を受け入れること』を繰り返し思い出しながら、
行きつ戻りつして生きていけばいいのだと。
一時期は『自分に厳しくあること』だけが先走り、自分で自分にダメ出しし続けることしかできませんでした。
でもそれだと、結果はいつも、わたしはわたしとして存在してはいけないことになってしまうのです。
他人に否定されるのも苦しいけれど、自分で自分を否定する事もとても苦しかった。
主治医やカウンセラー、そして友人達と話をしている中で、少しずつ自分が隠していた、見ないフリをしてきた痛みが見えてきたとき、
他人の為に自分を犠牲にするのは、まずは昔の傷ついた自分を救ってからでいいのだと思うようになりました。
のちに共依存についても書くことになると思いますが。
自分が犠牲になればそれでいい、というのは、一見美徳に見えますが、それは自分自身を自分で見捨てることにもつながります。
自己評価の低いわたしたちにとって、自分を見捨てることのほうが容易いけれど。
今、生きづらさを感じているのなら、今は自分を見捨てないで下さい。今だけは、自分だけは自分の味方で居て下さい。
私自身、何度も自分がイヤになっても、ここに書いた内容をわたしは何度も思い出すつもりでいます。