点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

あなたにとっての『普通』って何ですか?

えーと。精神科・心療内科関係に通院している人は、一度はこう思ったんじゃないかな?というところを、たらたら書いてみます。



「はやくこの病気から抜け出して、わたしは『普通に』なりたい!」

あたし自身も、ずっとずっとそう言い続けていました。今もまだそれしか頭に浮かばない時もあります。


でも改めて「じゃあ、普通って何なんだろう?」と考えてみると、いきつくところは「こんな家の子供にうまれてくるんじゃなかった」とか、「あんなことするんじゃなかった」とか、最終的には「生まれて来るんじゃなかった」になっちゃう。

自分以外の人達は何だか楽しそうで、幸せそうで、生き生きしてて、もうあたしはそんなふうになれないもん、というとこに行ってしまいます。

まさに「隣の芝は青く見える」です。

自傷行為や拒食症など、色んな症状に振り回されまくっていた頃、「なんであたしだけがこんなしんどいめにあわなくちゃいけないんだ!普通の人生を送りたかったのに!」って、めちゃめちゃ思ってました。


あたしにとっての『普通』は、まずは病院行かなくてよくて、薬も必要なくて、就労不可なんか言われなくて済んで、元気ハツラツ!仕事いってきまーす♪みたいなことを指していました。

だけど、今のあたしには通院は必要で、まだ薬も必要で、「ええ加減、医者の言う事きいて休みなさい!」って怒られちゃうと、今までの自分の生きてきた過程を自分がどう思っているのか?
そして、これからどうなっていきたいのか?
そこら辺を考えるようになりました。






演歌じゃないけど、人生いろいろなわけで。

改めて自分の生きてきた道にあったものを見つめていってみると、「うわぁ!」と思ったんですよね。


うーんと、もう6年くらい前だと思う。
あんまりにもあたしが『普通になりたいよー!』を連発していたからか、主治医に、「あのね。あなたの身に起きた事を考えたら、今、こうやって発病して、通院と薬が必要になったことは、ものすごく『普通』のことなのよ?! むしろ、あんだけのことがあったのに病気にならない人が居たら、わたしが会ってみたいわよ!」っていわれたことがあります。


その時は「先生はそんなこと軽~く言ってくれちゃうけどさぁ~。もうマジで洒落にならんくらいしんどいから!死にたいから!死ぬべきだから!」って思って、聞き流してました。


それから何人かの性犯罪被害当事者の人達と出会える機会があって、この本良かったよ、とかサバイバー関連やPTSD関連の本を教えてもらったり、体験談を聞いたりしてみて、「あれっ?!」と思った。


何が「あれっ?!」なのかというと。

あたしが体験してきたこと話してると、別の人の体験してきたことが似てる内容だったりすることがいっぱいあります。
特に自助グループのミーティングで、言いっぱなし・聞きっぱなししてると、ある。

で、その人は「こんなわたしは普通じゃないからダメだ。」というんです。

その時、あたしは心の底から、「そんな中をあんた生きてきたんだよ!?生き抜いてきたんだよ?!あんたのどこがダメなんだよ!!」って、叫んだことがあります。
(あ。もちろん、ミーティングの真っ只中じゃないですよ。)

もう全然理屈じゃなく。 
え? 何? そんなことがあったのに、今、あなたは自分のトラウマになった事柄と向き合って一所懸命生きてるのに、何がまだダメなんだよ!ってホントにそう思ったんです。

その時に、あれっ?となった。

今まで自分の生きてきた道を全否定して、全部ダメ!って思って、こんなクズが生きてても仕方ないって思っていたんだけど。
同じような事を体験した別の人には「あんたすげぇよ!」ってあたしは言えちゃうんだ。
しかも慰めや同情じゃなく、本心から。

じゃあ、もしかして、あたしはあたしに「あんたすげぇよ!」って言ってあげても良いんじゃないのか?
そらあんな事があったら病みもするさぁ~って、自分に言ってあげても良いんじゃないのか?

病気っていうものが、その時、その時の過酷な状況に対応するためにかかりすぎた負荷が表に出たものなんだと気付きはじめていた頃だっただけに、自分で叫んだ言葉にビックリした。

特に解離性障害離人感などに過敏になっている時で、解離することであたしは働けてたんだ、家事できてたんだ、脳ミソってすげー!ってなってた頃だったし。

更に、別に通院を必要としていない人達も「こんなはずじゃなかったのに。」と、思いながら、日々を過ごしている人が、すんごくいっぱいいるんだなー、と思いました。

はー。なるほどー。普通、普通って言いまくってきたけど、よーするに『普通』ってのは、絵空事のような、理想像でしかないかもしれないような、そんな状態のことを指してたんだ、って思うようになりました。

『普通』という言葉を使おうとすると、今、生きてる人達みんなにとっての『普通』が、それぞれにある訳で、比べようが無いんだなってことにも少し気がつきました。


今、あたしにとって『普通』は、1日3食を少ない量ながらも食べられて、食べたあとに吐き気が来なくて、「あ、あれ食べたい。」って思えるものがあって、しかもちゃんと味がして、満腹感がある。

フラッシュバックが来てうわああああ!とテンパることもあれど、猫と体当たりで遊べたり、猫と一緒に布団でぬくぬくしたり、本読んだり、家事をする。

悪夢見るときもあるけど、睡眠薬ナシで眠れる。

体が強張って動けなくもなるけど、時間をかけたら歩けるようになる。(よく廊下とか這ってるんで

それがもう『普通』で、今のあたしだからね、って、受け止めてる。

そして一番デカイのは、今のところ、もう昔、あたしを脅かした誰かや、何か、は、ここには居ない・無いんだ。
あれらはみな、既に起きてしまったことで、今では『変えようの無い事』だってのも理解してる。

やれることは、やってきたじゃないか。 

変えられることは変えようと躍起になったし、もう今は現状維持しかないって時も、何とか維持しようとしてきた。

気がついたら、あたしは周りの人から『普通だね。』という言葉を貰わなくても、なんとか生きてこれるようになってきていました。


あれほど『普通になりたい!』とこだわって喚いていたあたしは、どこに行ったんだろう?


『普通』ではないがために、知らないままでこれたようなことを知ってしまったりもした。

でも、最近やっと、なんかその知らなくてもよかったようなこと、が、誰かの役に立つ時があったり、自分が生きてくつもりである「今からの時間」を、ものすごく輝かせてくれていることを知りました。

まだ、生きてて良かったです!て言い切れないけれど。

でも、少なくとも「あの中であたしは、精一杯やれることをした」という意味での自信のようなものが生まれはじめています。


生きてて良かった!と言い切れるのは、それはほんとに死ぬ時でいいかもしれない。

親戚のオジサン(といってもあたしの祖母の兄ですが)が、亡くなる時、「ああ、わし、この家に生まれてきて良かったわぁ。」って言ってガンで亡くなりました。

そのオジサンの言葉を聞いたとき、あたしはすごく嬉しかった。良いなぁ。そう言えるって、良いなぁって。

そう言えるように、生きてみたいなぁって思いました。


普通であること、は、憧れの偶像のようなものかもしれない。

実は誰も『普通』じゃないのかもしれない。

あまりにも『普通』は、あたしにとって得体が知れないのです。

得体の知れないものを追い求めて、同化しようと必死になるのって、際限が無い。

わかんないんだもの。 あまりにも漠然としすぎていて。 


どんなに病気を無かったことにしたくても、今、もう既にあるから。 

そんなら、今からこの病気から這い出すのに、何をしたらいいんだろう?とか、何ができるんだろう?とか。

病気だけじゃなく、それ以外の部分でも、何かできないかなぁ?とか。


『普通』という言葉の持つ呪縛から、ちょろっと抜け出してみると、何から手をつけていいんだかわからなくなるくらいの見知らぬ世界がドーン!とある。

見知らぬ世界に入っていって、傷ついたり、悲しい思いをしたりもする。

でも、帰る場所を、自分の中に作っておけば、傷ついても、悲しくても、帰ってこれる。

そんでそこから「うーん。ケガしたから病院行くかぁ。」とか、「なんか面白かったから、誰かを誘ってもう一回いってみようかなぁ。」って考えたらいいんだな、と。

あと、「あんな人達がいる!うらやましい!」って思うことも、以前のあたしには罪悪だったけど、そう思うんだからしょーがないし、それでいいじゃん。

うらやましい!って思えるから、これからを生きられたりもするから。


犯罪被害にあわなくても、人は生きてる限り、どこかでSurviverなんじゃないでしょうか?

たまたま被害当事者になっちゃったので、敢えて自分を見つめなおすためにSurviverという言葉を使う時があるだけで、みんな生きていこうとしているなら、Surviverだと思う。

時々、何のためにSurviveしてんのかわかんなくもなるけど。

死ぬまでに「あー。あたしはこれを譲れなかったんだなぁ。大事だったんだなぁ。だから必死だったのか。」って気付けたら、もうそれでいいやって思ってます。


もし、『普通』を目指していて、もうそれが重くて重くて耐えられない、という人が居たら、こんなふうに『普通』をちょっと横においとくやり方をして生きてみています、という人もいるんだ~と、ぼんやり思ってもらえたら。

そんで、それでその人が何かラクかも、ってなったりしたら、あたしはすごくすごくうれしいです。ありがとう、です。