点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

【傷の舐め合いにならないようにする】

ものすごく伝えやすそうで伝えにくい、この人間関係の距離・・・('A`|||)
大筋だけ抜き出したくても、あたしの文章力では多分余計に分からなくなりそうなので、もう体験談そのまんま書いていきます。


自傷行為をまだガンガンやってた頃のことです。

今や学校などで自傷行為をしてる人を見つけ出すのは、そんなに珍しいお話じゃなくなっているようですが。

あたしが切ってた頃はとにかく『自傷行為仲間』がいなかった。

通院をはじめて、やっと「あれ?」って感じで見かける程度でした。

そのせいか、ものすごい孤立感があって、とにかく『切ってる人』と知り合いたくてたまりませんでした。


そんな時に抽選で手に入れちゃったPC。Windows98ですよ。テレホーダイ時代ですよ。懐かしい。

検索してるうちに、ある自傷行為をしている人達ばかりが集まっているBBSに辿り着きました。

年齢も地域もさまざまでしたが、「ああ、あたしだけじゃないんだ」という安心感でいっぱいになり、テレホーダイの時間帯(夜中11時からだっけ?)には、毎日仕事がなければ閲覧し、書き込みをしてました。

まだBlogなんかも無かったし。HPを作る=ホームページビルダーがなければできない、と思ってた。

2年間くらいは間違いなく入り浸ってました。


まずそのBBSでは自傷行為をしても、『怒られない』『キモチワルイと言われない』んです。

これらがあの当時、とてつもない大きさで、あたしの救いになっていました。

通院している人も沢山居て、PD・鬱病などの診断が出ている人達も沢山居ました。

薬の話も出たし、今は自立支援法ですが、当時は「通称32条」と呼ばれる、診察費・処方薬代の公費負担制度についても、そこで教えてもらいました。

すごく居心地が良かった。 
切ってしまって、出先で気味悪がられたとしても、「気にしなくて良いんだよ。」と言ってもらえる。
切りたい衝動を抑えられた時は、褒めてもらえる。

でも、さすがに長々とそこに入り浸っていると、それなりに人間関係が出来てきて、自傷実況だの自殺予告だのが増えてきてしまった。
その時はもう、そのBBSは自分には無くてはならないもののように感じていたので、みんなして誰々が死のうとしてるから、誰と誰は昼間、その子にメールして!っていうような流れまでできてしまいました。

そうするとやっぱり、重い。今よりも気軽にメアド交換やOFF会をやってる時代でしたから、顔が分かってるだけに、放っておけなくなってしまった。

で、ここらで『共依存の悪い面』が、どんどこ浮き彫りになって来ました。


共依存とは、人間関係そのものに依存するというアディクション(嗜癖・依存症)です。

共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になります。
身近な人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとってあげてしまうため、結果的に現在の困った状況にある本人が決意して解決する必要を与えず、困った状況をそのまま続けるはめになる、あるいはますます困った状況に陥っていくことが多いです。


(参考HP:『家族という名の強制収容所』 管理人:朔さま http://trauma.or.tv/index.html )

まだその頃、共依存についての知識は殆ど持っていなかったので、依存されて重い~!くらいにしか捉えていませんでした。
(でもその依存をさせてしまっているのは、自分自身だったのですが。)

人に依存すると、ある意味、ものすごくわかりやすい形での問題なので、BBS上で「これ以上頼らないで!」といったように、人間関係がどんどん壊れていくようになりました。

そのうち依存するのはAC(AS)だから仕方がないと正当化する理由を並べる人、もうここから出ていく(卒業)という人、依存しあっている人達を裁こうとする人、何が偽善で、何が悪か、なんて論争まで起きました。


そうこうしているうちに、今はもうなくなってしまいましたが、ある無料HPスペースが、HTMLなどの知識ナシでも必要なことを書き込むだけで、フレーム設定もBBS機能も日記機能もレンタルできる所があるのを見つけて、何人かのひとたちは自分でHPをもつようになりました。
あたしもその一人でした。

いくつか既にできあがってた仲良くなった数人とでCHATを利用するようになっていきました。



ぽーんとメインのBBSから離れて、HPを持ってみると、しばらくしてからそのBBSを覗く度に、違和感を感じるようになりました。

『あたしたちはここで何がしたかったんだろう?』というところに、再び戻る事になったんです。

はじめは皆、自分以外に自傷している人がいないだろうか?という孤立感と、自傷行為をしなくてもよくなることを目指して、BBSを利用しはじめました。

でも、少し離れてから、改めて自分達がした書き込みやスレッドをみると、『自傷行為をして生きていくのが当たり前な私たちだから、しょうがないよね。』という、慰め合い、傷の舐め合いにしかなっていないことに気がつくことが出来ました。

以前、ここで書いたと思うのですが、まさに当時のあたしたちは『自傷行為=自分の全て』でした。

自傷行為は、自分の一部分なだけである』はずが、もはやそれなくしては生きていけないのが自分という人間だ、と、自分で自分に定義づけていました。

「やめたかったんだよね?あたしたち。」という声があがるようになり、そのBBSに居た人達の中から、どんどん自傷行為をしなくても生きられるようになり、卒業していく人が増えていきました。

(それでもどんどん新しく「自傷してるんですけど・・・」という人が参加してきていたので、そっちに共依存してしまう人も出てきました。)


自傷行為というアディクションから抜けられた人の共通項

◆「自分は自傷行為というものをしなくても、生きられるようになりたい。」という気持ちを再確認する。

◆「何のために、自分は自傷行為をするようになったのか?を直視する。」(するようになる。)

◆お互いに「切らずに済んだ体験」を、日記に書いておく。(コメントなどはあまりしない。)

◆切らずにおれなかった時の自分の気持ちについて、話す。(日記に書いておく。コメントはしなくていい。)

◆通院している人達は、医師やカウンセラーから学んだこと(自己評価の低さや、依存しあう人間関係など)の知識を日記に書いておく。(これもコメントは別にいらない。)

◆話し合いたい、誰かからレスポンスが欲しい場合は、自分のHPのBBSに書く。


自助グループのミーティングに出た経験のある方なら「あれ?」っと思ってもらえるかもしれません。

ものすご~くゆるいですけれども、ミーティングでやる『言いっぱなし・聞きっぱなし』の形に似ていませんか?

各々がHPや日記を利用することで、今まで1つのBBSの中でぐるぐる回ってしまっていた事柄を、「言えるときに言う。」「聞ける時に聞く。」「HPの管理人と話したい時は、そこのBBSやメールでする。」というふうに、少しずつですけれども、個人と個人の間に、ぎゅうぎゅうな親密さではなくて、程よい距離をはかれる形になっていったんです。

日記機能も今のBlogのように、必ずコメント欄があるわけではなかったですし。


どーん!と落ちてる日記を読んじゃっても、「うーん。心配だけど、今、わたしもしんどいなぁ」と、ちょっと身を引けるようになりました。

(はじめのうちは、即行「○○がヤバイ!」って連絡が来たりしてましたが。)



BBSから離れると決めた人は、『傷の舐め合い』という言葉や関係に、かなり過敏に嫌悪を感じていた人が多かったのも幸いしたかもしれません。


今、あたしは確かに性犯罪被害当事者や、自死遺族の人達、そしてPTSDの人達と知り合えると、正直いってすごくホッとしますし、嬉しいです。
仲間に出会えたという喜びがあります。
自分だけじゃない、という安心感は、回復していく上で、必要な事だと思ってます。

でも、そこから先、知り合えた人達とどういう距離で接していくか、について、考えるようになりました。

元々、どーんと人のことを引き受けすぎて、抱えきれなくなってズバッと関係を断つか、はじめから近寄らないでいるか、または真逆に、相手の所にドカッとのっかってしまうといった人間関係しか築けず、ずっとそれについて悩んでいるのもあります。

距離感、と言ってしまうとひとことで終わっちゃうのですが。

多分、誰もが自分と他人との距離についてや、人間関係の中での自分の立ち位置がよくわからない、漠然とした不安や自信のなさを、多かれ少なかれ感じているんじゃないかと思います。

AC・ASの自覚がある人は、単にその不安や人との距離について、過敏すぎたり切り捨てすぎたりして、「なんだかわたしがわたしでいることがしんどい。わたしとして生きていくのがしんどい。」と気がついた人々です。

気付いてしまうことで自分の家族との関係などを直視することになって苦しい思いをすることもあります。
事実や真実が、いつも美しく、優しいわけじゃないから。

でも気付いたおかげで、次に何が出来るのか?を、考えることができるようになる。

自分以外の人々を動かそう、変えようとすると、とてつもなく難しいけれど、少なくとも自分を変えていく努力や、自分を知っていくことを続けていけば、自分に繋がるものを変えていけるのだと思います。

人を、一切傷つけずに生きていくことはできないし、自分が一切傷つかずに生きていくこともできない。
だからこそ『思いやり』とか、『相手の立場になる』とかが大切だと言われていて、その具体的な内容や質について問われているのではないか?

多分、自分を変えていく・自分を見つめるという作業は、一生、終わらないのだと思う。

自分が人である以上、ずっと学びつづけ、失敗し続け、それでもなお明るい方へ、少しでも温かく柔らかな方へ、変わっていこうとする、力。

『傷の舐め合い』が間違っているのではなく、ただ、『傷の舐め合いを継続すること』は、少なくとも回復への道には必要ありませんでした。

それだけは、ハッキリしたと思ってます。




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◆お知らせ

現在twitterの方で知り合えた方と、Skypeを利用したACミーティングを企画しています。


twitterでは #acjp というハッシュタグつけてます。)

       
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