点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

2010/12/09


えと。雑記です。 なので何かを訴えたり説いたりしません(苦笑)


ちょっとここんとこ体調が良くないです。 12月だしなぁ。(いろいろいろいろあった)

母との間にあったことをまとめようと思いながらまだ手を付けられてません。

 
すいません。


コメントいただいたり、あと拍手コメントとかもいただいたりしてて、ちゃんと気付いていなくてすみませんでした!
ありがとうございます!
 
そんでそれらを読ませていただいてて思い出したというか、気にかかるというか。
 
ふっと思ったことがあったので、備忘録的に書いとく。
 
 
何が気になったのかというと。
 
長年○○を患ってますっていう感じの人と今までもたくさん出会ってきたし、今もリアルタイムで出会ったりしているのですけれども。
 
その時に、その人と話してると、なんともいいようのない違和感を感じる時がある。
 
【なんでもかんでも比較しすぎ】ていて、それで自分が体験した事はみんなに比べたら大したことない、とか。
 
性被害とか虐待だと、「わたしは最後までされてないから被害当事者じゃない」って思い込んでる人も居る。
 
いや。
最後までSEXとして入れたか入れなかったかってのは、それは現行の法律上における【強姦罪】なのか【強制猥褻】なのか【暴行】なのかっていうのを決めるための一要素でしかない。
 
それは法的に裁くとなった時に、必要になってしまうだけのことで。
 
恐怖を感じた、命の危険を感じた。それがあれば間違いなく被害当事者のはず。
 
痴漢なんて日常茶飯事だから、っていう人が居たとしても、それも立派に性犯罪被害なのです。
 
そういう意味では性犯罪被害当事者である人って、実はものすごく沢山居ると思う。
 
 
 
じゃあ、PTSDや鬱にまで発展したのは、その人が弱いからなのか?というと、それこそはかりようが無い。
 
重さ? 深さ? 単位がわかんないでしょう?
 
ハッキリしてるのは、その人にとってものすごくショックがでかかった、精神的にも肉体的にも死にそうなほどの恐ろしさと傷を負う体験だった、ということ。
 
これはもう変えようがない。起きた事は無かった事にはならないから。
 
 
被害当事者同士で話をしても、たまに出てくるよね。
 
わたしよりあなたの方が酷い目にあったから、とかいう【比較】。
 
せめて「痛みや苦しみは比べるもんじゃないんだ」ってのは、たくさんの人に浸透して欲しいなと思う。
 
 
 
あと、何らかの病を患っている人の中には、もう【その病があってこその自分】の位置から動こうとしない人、または、動けるわけがないと決め付けている人、結構居ます。
 
以前のエントリにも書いてたかもしれないけど。
 
治りたいって言うのね。口癖のように。切りたくない、過食したくない、吐きたくないって。
 
んじゃあ、もう何とかするしかないじゃん。
 
切らずにいるには、食べずにいるには、吐かずにいるには、わたしは何をしたらいいんだ?って、必死こいて『やったことのないこと』を『探し続けて』『やる』しかない。
 
イヤなんでしょ? 何よりもそれがイヤなんでしょ?
 
なのに、なんでそれがなければ生きられない自分を完成させちゃうんだよー?!
 
なんでイヤな自分を完成させていくことに必死になるのー?! わかんないー!!!
 
 
はじめは、自分がその病を持っている、ってことが大きな壁になると思う。
 
認めたくないもんよ。自分が病人だなんて。
 
でも、認めてしまわないと、治すって方向には行けないんだなって瞬間が、絶対ある。
 
わたしもはじめのうち、解離とフラッシュバックに対しては、どーにも受け入れがたかったです。
 
イヤでイヤでたまらなかった。
 
でも、もう存在しちゃってるから、ちょっとでも酷さがマシになるためには、自分がPTSDであることを飲み込むしかなかった。
 
 
 
で、飲み込んだら今度、それが【自分そのものにならないように】気をつける。
 
【自分をかたちづくるもの=病】、というとこに行かないようにする。
 
行ってもいいけど、ちゃんと抜け出してくるつもりでいる。
 
病のただ中と、そうじゃないときと、その間を行ったり来たりしつづけて、「あら?なんか前より【真っ只中】の時間が短くなってね?」ってなったら、それでいい。
 
 
しんどいよ。 治すってのも、病気になるのと同じくらいしんどいよ。
 
でも、治りたいんならさ。 やるしかねーじゃんよ。
 
切らずにおれなかった時、あったよ。
 
でもイヤだったんだ。仕事するしかないのに、傷あったら雇ってもらえないんじゃないかとか怯えるの疲れる。
 
それならもうやめちゃえばいい。そしたら怯えなくてよくなるんだから。
 
 
『病は気から』は、病を持っている自分に慣れ切ってしまうことに警鐘を鳴らす言葉だと思ってます。
 
どーにもならんこともある。 どーにもならん、症状は、ある。
 
でも、どーにかなりそうかも、って部分を、意地でも見つけて何とかしたかったし、今も何とかする気でいます。
 
これからも何とかしていくつもりでいる。
 
 
もうあたしは投薬治療の限界といわれて長いです。でも、今の薬をあたしはまだ減らす気でいる。
 
投薬がもう限界なんだったら、それ以外で何かないのか?ってずっと探しては、試してる。
 
残念ながらうちは裕福じゃないので。 カウンセリング再開はハッキリ言って難しい。
 
でも医師とカウンセラーが居なくてもできる何か、回復に役立つ何かがないか?
 
それを探すこと・試すことを諦める気はないです。
 
 
治るはずのものを治しちゃうと、今の自分の立ち位置や生活が変わってしまう。それが怖くて治そうとしない人も居る。
 
人それぞれの、生き方だから、治せ!と強要することは誰にも出来ない。
 
 
でも、治したい、治りたい、なら、やるしかないこともやっぱりあるんです。
 
しんどくても、こわくても、ね。