答えは、その人それぞれの中にしかない、と思う。
なんか自死遺族ブログ、でたどり着いている方が多いのでなんで?と思ってたら、もうすぐ自殺予防週間だったんですね。(忘れていた。)
自殺予防週間 (平成25年度「自殺予防週間」特設ウェブページ)
えーと。
こないだもコメントいただいたりしたのを読んで、考えたんですけれど。
やっぱりどうやっても『自殺は絶対ダメ!』のところに、私は行けない人でした。
確かに知ってる人や、すごい大事な友達が自死したら、私はとんでもなく凹むし泣くしえらいことになるだろう、てのは自分でわかってるのですが。
でも、それでも、絶対ダメ!と言い切れるモノが私には無いです。
だって私の都合だもんな。逝って欲しくない、ていうのは。
どーにもこーにもならなくて、そんでもって、その人が「自殺しかないねん。」て決定して、決行して、死なれたらもう何にもできない。
ただ、そこに至るまでに何かできたかもしれない事を、死にたい人と一緒に探せたらいいけど。
最終的にはほんとに当人が生きて何とかしたいか、死ぬことで何とかするのも全部やめたいか、だし。
で、自死遺族の想い、も、自死する人と同じように、それぞれ皆、違うと思う。
共通するグリーフワーク的なものはあるかもしれないけれども、こう感じるのが正解、とかいうものは存在しないと思ってます。
たとえば、自死した人があの世で浮かばれない、と捉えることで、遺族の1人は生きていこうと思えるのかもしれない。
「自死したあの子の分まで生きなくては」と捉えることで、生きていこうと思える人も居るかもしれない。
私は「あの子が浮かばれない」「あの子の分まで」的発想はイメージはできるけど、共感できないです。
だってその子の代わりがつとまるような生き方してないし、そもそも代わりになんてなれないもん。
自分の人生すら途中で投げ捨てたくなる時があるというのに、他の人の人生をも生きるなんて無理だ。
それに、あの世で自死した人が幸せにしているかどうか、も、調べようがないから、あの世で喜んでくれてるだろうか?とかそういうのもあんまり考えてこなかったかも。
自死した友人らにもらった手紙を大部分、まだ持っているんですけども。
その中で「あなたは生きてね。」とか言われたので、何でそう思われてたのか知りたくて、もっかい手紙読み直してみたり、当時の自分や彼らを思い出したりはします。
自分が死にたくてしょうがない時は、くそぉ置いていきやがって!て、未だに泣くし。
良いことがあった時は、「ほら!生きてきたらこんなんあったで!」てその子らに言っている時もあります。
で、もう読み返したら悲しくなるだけで、前も今の足元も見えねーよ、てなったら、きりのつくところで燃やして昇華させたりもしてます。(めったにもう燃やさないけど。残り少ないから。)
たくさんの人を見送るしかなくなってみて、絶対これだけはやらない!て決めている事はいくつかあります。
まず、死ぬな、ていきなり頭ごなしには言わない。というか、言えない。
死にたいもんは死にたいのだ。
「生きてればいい事がある」も、絶対、言わない。
そんな保証はどこにもないし、私が保証なんぞできないから。
「生きたくても生きられない人がいる」も、絶対、言わない。
みんながみんな、自分がもう死んでもいいや、と納得できるタイミングで死ねる訳じゃない。
事故死もあるし、病死もあるだろう。不治の病になる人も居るだろう。
だけど、その人と、死にたいと私に直接言った相手は、別の人で、別の生を生きている。
比べようがない。交代しようがない。
比べようが無くて、代わりが居ない。
だから、『今、死ぬ選択で良いの? 』『とにかく死にたい』という気持ちを、本気で聞くしかできない。
そして、だからこそ、命を大切にして、てなるんでしょ?
自殺しないで、て、なるんでしょ?
同じ人間という生き物だけれど、生き物として同じだからって、気持ちや体まで同じでは無いもん。
きっと、国策や法はいくらでも『自殺をするな。してはならない。』と言い続けていくだろう。
それはもしかしたらものすごく正しくて、ものすごい正義なのかも知れない。
でも、私は正義じゃない。正しくなんかない。
少なくとも、自殺・自死について、私は間違っていると断定できるような何か、ではない。
正しさや正義は、もうそう信じている人たちにお任せする。
これからも、私にとって大事な人が死にたいと言ってきた時。
私は本気で彼らの死の決意表明を聞いて。
明らかに私の都合であると分かった上で、「私はあなたにまだ死んで欲しくない。生きて、そしてもう一回会おう。」と言うだろう。
そして会いに行ったり、会いに来てもらったりするだろう。会う場を作るだろう。
私が代打に立てる何かがあって、それを私がやっても、その人のその後に差支えがなく、同意してもらえたならやるだろう。
自死・自殺という死に方について、思う事は月日を重ね、いろんな形の死を知るたびに少しずつ変わってはいくかもしれないけれど。
それでも、死にたいと言う言葉を全力で搾り出してきてくれた友人らにまで、私は嘘をつきたくない。
死にたくなって、いいんだよ。
死にたいって言って、いいんだよ。
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