点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

自分の中身、整理キロク。


自分整理の書きなぐり。

今、こんがらがって身動きとれなくなったり、疲れ果てているのかを見つけるために、自分が今日まで何をしていて何を考えていたのかの書き出し作業。

この作業ははじめはもちろん手書きのノートだった。
ただ、体のこわばりが派手に出始めてから、ああ、PCのキーボードなら叩けばいいんだ、てのが分かった。

で、やってみると、普段、話し合えない自分(特に昔の、思い返したくない環境のさなかにいる、私)と、今の私が話をする手段がこれなのだな、と思うようなった。

言葉が出ないときはもうそれはそれで。
私が分かればいいのだ。
自分が落ち着くためにやっているだけだから。
(昔のやつ、サービス終了で全部消えちゃって遡れない~。しょうがないか。)

とにかく、ご飯を、食事をしなくては、と思って。
(この夏は、いつもよりはよく食べた方なのです。)

昨日からずるずると作れるもの作って食べています。

なんで食べる、ということを『決意』しないといかんのだろう、と思うが。
私の中でに食事に対してのイメージが、すごいしんどいものと、すごい嬉しいものの真っ二つだからだと思う。

やっと大半は気配だけになってきたが。
食べ物を前にした時に、怒鳴られたり怒られたりした感覚が、「今じゃない、昔」であると感じ直さないと、食べていいのかわからない。

子供の頃、食事を発端にして、母の怒りが爆発することがけっこうあったこと。
DVのさなかは、食べるもの=私が用意するけれども、私が食べてはいけない、というルールがあった。
拒食症になってからは、病院食を完食する、という目標が長く続いたのも、食事=義務的なモノ、になった理由かもしれない。

まったく楽しくないのではないし、美味しいと思えるときもちゃんとあるのだ。
ただ、それを感じるための余力みたいなものが、全然無いときが、私にはたまに、ある。
(疲れ果てた、というサインでもあるので、ある意味大事かも。)

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信田さよ子さんの『毒になる親』を、私は読んでいない。
他のアダルトチルドレン完全理解、とか、母が重くてたまらない、は読んだけど。

というか、私が信田さんの本を知ったのは、母との関係を再構築しようとお互い話をした直後だったので、
父と母に対するダメ出し要素が今よりも増えるのが、私はイヤだった。

信田さよ子さんのことを教えてもらってから、たまたま当時、大阪でシンポジウム的なものをやるというタイミングがあって、それには話を聞きに行った。
面白かった記憶はあるのだけど、細部までの印象があまりない。

たぶん、私自身、「アダルトチルドレンである」というカテゴライズ名を、自分からはずそうとしていた頃だったのだと思う。
カテゴライズ化することで、自分の性格や考え方のクセを知るのは、自分の中に落としどころを作るまでは必要だと思うのだけれど。
さて、それを問題視・敵視しつづけた先に、はたして私は生き易くなれるのだろうか?というのがあった。

母が、母親という役を降りた。その降りるタイミングが、子供の私には早すぎた。
これはもう私の中にハッキリとあって。そして母にも伝え済みだし、母自身も認識してくれている。
それだけあれば、もう充分のように、思う。