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いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

当事者周辺のひとたちに知ってもらいたいこと(病気編 その3)

【注意】
この当事者周辺のひとたちに知ってもらいたいこと(病気編)シリーズは、
親=病気になっていない人(サポートの位置に居る人・友達なども含む)
子=精神科領域疾患の当事者  を 前提にして書いていたテキストです。
なので適宜、当てはまる人を入れ替えて読んでくださいね。





「死にたい」「苦しい」という言葉をさえぎらない 。否定しない。

死にたい、と言うと。
「なにバカなことを言ってるの?」「そんなことを言われても困る」「自殺は絶対にダメ」
「みんなの気持ちも考えて。」と、すごい剣幕で説き伏せられるのは、当人にはものすごく辛いです。

例えばあなたが高熱を出して、「頭が割れるように痛い」「痛くて辛い」と口にしたとします。
それを「甘えるな」「そんなことを言うもんじゃない」と説教されて、「なるほどな」と納得できますか?

「死にたい」という言葉には、実際の自殺だけでなく「苦しい」「早くこの状態からラクになりたい」という叫びも込められています。

そこに更に周りのことも考えて、などと畳み掛けられると、「自分は苦しいっていうことすら許されない存在なのか?」と感じます。

「死にたい」と言葉にする。そして、涙を流して泣く。
それだけで患者本人の気持ちが落ち着いたり、スッキリすることもあります。

泣いてもよい環境、死にたいくらい苦しいといっていい環境は、当人にとってとても大切な事だと思います。

大人と言われる年齢に近づくにしたがって、なぜか家族からも社会からも「自分の感情を押さえ込んで我慢する」ことを強いられてきます。

でも、うつ病とか精神疾患って、感情や感覚で処理できる限界を超えちゃって、表にでてきちゃったナニカです。

「ここに居てもいい。ここに居るだけでいい。」
「ひとまず不必要なまでの自分の感情を押し殺すのをやめていいところ。」
そういう環境って、療養生活のなかのどこかで必要になってくると私は思っています。

そしてそれは患者本人が自ら作ることもできるし、家族や周辺の人と一緒に作ることもできる、と思います。
 

死にたい、というのも。
別に周りが説き伏せなくても、患者本人は「自殺したらどうなるだろう?」と色々考えています。
子供が困るだろうとか、親が泣くだろうとか、ちゃんと考えています。

もう理屈ではないのです。痛いものは痛いし、苦しいもんは苦しい。
そしてその痛さ・苦しさは、患者本人にしかわからない。
病気ってそういうものですよね?



周りは「死にたいくらい苦しいんだね」と、患者当人の今の姿をそのまま受け止めて下さい。

「あなたの死にたいくらいの苦しさを全て理解する事はできなくてごめん。でも知りたいと思っているんだ。」
「あなたのしんどさが今よりも減るために、協力したいし手助けしたいと思ってる。」

こういう気持ちを、相手にきちんと声にして伝えて下さい。


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