点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

2024/02/22追記更新 性暴力とその二次加害にあたるものについて。

 

 

 

児童虐待の防止等に関する法律(リンク先:法令データ提供システムe-Gov)で定められている内容は、とても狭い範囲だけを扱っていると考えて下さい。

18歳未満の児童=被害者であるというのが大前提だからです。

 

性虐待にあたるものとしてあまり例として出されてない事柄や、二次加害的な事柄を書いてみます。(後日追記するかも。)

 

まず「加害者=おとな /  被害者=子ども(児童)」だけが性虐待ではありません。

セクシャリティや年齢、血縁の有無なども関係なく起こりうる事です。

いじめ・セクシャルハラスメントパワーハラスメント・差別などとも密接な繋がりがあります。

性虐待は「性暴力」です。

 

おおまかなものは以下でどうぞ。

 

児童性的虐待 - Wikipedia

性的虐待 - Wikipedia

 

 

 

 

 

・ 性行為などの知識が無い・少ない人に(故意に)性行為を見せる/見えるようにする。

屋外、道路、駐車している車等での性行為は公然わいせつ罪(刑法174条)にあたります。同時に、故意ではなくとも知識の無い・少ない子どもに見える場での性行為は、性虐待の1つである「性的な場面を見せられる」にあたります。

両親が喧嘩をしていると思い、DVの中で生活していた子ども達にもみられるようですがトラウマになり得ます。

 (以下、一例です。反転で読めます。)

※家族のセックスの現場に居合わせてしまったりして「静かにしてなさい」「邪魔をするな」と命令されて、声が出なくなったり、チック症状(顔の痙攣)が出た子どもも居ました。

天童荒太さんの『永遠の仔』の中で、モウルが体験しています。

またジラフが大人になってから、恋人の奈緒子に自分の裸体と性器について感想を無理矢理言わせるシーンがあります。

あれも、AVとかでありがちですが『性器の名前を無理矢理にこどもに言わせたりする』のは性虐待です。

 

 

 

 

・胸や性器などの形や大きさなどをからかったり、おかしい等と言うこと。

言葉・心理的虐待でもありますが、性虐待にもあたります。

いじめの中でもこういった個人の容姿をネタにする場合があると思いますが、そもそも身体の成長は個人差があって当然のものです。

性的いじめは性暴力です。

 

(以下、わたしの例です。反転で読めます。)

※わたしは初潮がきたのも胸が大きくなるのも早かったため、学校や家でそれらをネタにからかわれたり、「成長してるか確認する」といって触られたりしました。

ブラをつけるとからかわれたり、大きさを聞かれたりするのも苦痛でした。ブラをするかしないかで母ともめたこともありました。

中学生の頃には、胸をそぎ落とす手術を受けたいと真剣に考えるほど悩みました。未だに下着をつけることで息が出来なくなるほど苦しさをおぼえる時があります。

 学校でのいじめのネタも胸のことでした。

 

 

・「虐待を受けた過去があっても、加害者が身内なのであれば許すべき」論。

似たよーなものだと「子供を愛していない親は居ない」論もです。

 

いち被害当事者としては、この言葉は「大きなお世話」「あんたに決めてもらわなくちゃいけないことじゃない」としかいいようがないです。

 

「親も大変だったんだ」「あの頃は仕方が無かった」などを加害者本人からや第三者に、まるで「許してあげられないあなたの心が狭い」とばかりに言われたりしてきました。

でもそれって被害当事者にしてみれば、いわゆる二次加害(二次被害)です。

 

加害者を憎むことでやっと今日一日を生きていける人も居ます。

されたことは許せないけれども加害者を憎みきれない人も居ます。

おとなになってから訴訟を考える人もいます。

 

 

被害当事者が故意にトラウマにしようとしているわけでもありません。

故意に病などの原因にしているのでもありません。

 

被害者もほんとうにそれぞれがいち個人であって、それぞれの環境や生き方があります。

被害体験をどういうかたちや立ち位置で、自分の気持ちや言動に落とし込むのか。

そしてその体験をどこで、どういう形で、どれくらいの情報量を発信するのかは、当事者であるサバイバーそれぞれが、自分の意思で自由に決めていいことです。

 

その場に居合わせた・うわさを見聞きしたことがあるバイスタンダー。

積極的にサバイバーを支援したり連帯するアップスタンダー。

これらの当事者周辺にいる人々によるアウティング(被害当事者の同意を得ずに被害内容やその後にあった事柄を暴露すること)は、支援でもサポートでもなく二次加害の入り口です。

性暴力は、1人の人間の自己決定権を奪います。

一度奪われ軽んじられたその権利と尊厳を、体験を語るとき、告発するときに再び踏みにじられることはあってはならないのです。

 

絶対に揺るがないのは『決して軽視できるものではない』

『決して正当化できるものではない』ということです。

 

そして「たいしたことじゃない」という人が多ければ多いほど、被害者になった人たちは、被害当時だけでなく繰り返し傷ついていきます。

 

何が何でも「性虐待(性暴力)をなくしたい」のならば、自分も加害者になりうるのだということを心に留めておくべきだとわたしは思っています。

 

それに、性暴力被害体験の悲惨さや苦痛については、ずっとずっと昔からサバイバーたちや性暴力関係の何らかの事柄に関わっている立場の人たちが、書籍や講演等で語っています。

知りたいと思えば、知ることはできる。

そういう時代になっているとわたしは思います。

 

もしも虐待や性暴力に対して憤りを感じるなら。

既に傷ついた人たちが、決して「どこかの可哀想な誰か」ではなく、今もあなたのすぐ傍で生きている誰かなのだということを、どうか忘れないで欲しいと願っています。

 

2024/02/22追記