とうとう読みました。
調べてみたら、発売されたのは1999年3月。TVドラマ化が2000年4月。
書店で平積みになってるときから、「これはうっかり手を出したら自分がえらいことになる」感がすごくて、怖くて読んでませんでした。
ドラマのDVDを見ることができたのがたぶん2008年くらい。
ドラマだけでもうかなりやばかった。(フラッシュバック注意の意味で。)
これを文章で書いてあって、自分でその情景をイメージしながら読むなんて、ドラマの中に描かれていない心情も絶対あるだろうし、耐えられない可能性大だったので、「いつかそのうち読めたらいいね、な本」扱いでした。
でもなんか読まないといけない気がしてきたので、腹くくって文庫版で購入。
文庫版にしといてよかった・・・!
理由は、とりあえず1冊読み切ってから一回休憩するか、続きをそのままいっとくか考える時間がとれるから。
(本来はハードカバー上下巻です)
そこまでして読むなよ、てハナシですが、たまにとことん傷に塩をねじ込むかの如きテーマの本や映画を読みたい・観たいときがあるのです。
疲れ切ると泣けなくなるタチなので、たぶんカタルシスが何が何でも必要になる時があるのかも。
天童荒太さんのあとがきがものすごく良かったです。
あとがきだけで泣きました。文庫版のみのあとがきもあるよ!
文庫版 第5巻 あとがき(P337)より
この小説は、虐待を繰り返していない人や、いまはもう幸せな人よりも、つい親にされたことを繰り返したり、実際に行動に出ていなくても、繰り返す不安にふるえていたりする人……また、過去の傷のとらわれから、なかなか抜け出せずにいる人に、寄り添いたいと願った作品でした。
そうした人には、焦ってほしくないし、自分をもう責めてほしくない。
自分を許してあげてほしいと思っています。ゆっくり、ゆっくり、休みながらでいいんです。
完全なものなどありません。完全な人はいません。完全な心の形というものも、ないと思っています。みんな、それぞれ小さな傷、大きな傷、小さな悲しみ、大きな悲しみ、とりかえしのつかないこと、大切な人を失ったり、大切なものを失ったりなど……様々な不安や苦しみや悔恨を抱えて、生きているのだと思います。
ただ、簡単な道でもないと思うのです。
頭ではわかっていても、様々な支えを得ても、まだ心の底から笑っては生きてゆけない……そう感じている、被害者的な立場の人のほうに、この物語は寄り添っていたかったのです。
そして本編中だけでもしゃくりあげすぎてお腹の筋肉が痛い、てなるくらい泣きました。
可哀想で泣いたわけじゃなく。
(可哀想で泣く、ていうの、わたしはどうも出来ないようです。泣ける映画、とかああいうのぜんぜん泣けないもん。)
あまりにも登場人物それぞれの心境や言葉にリアリティありすぎ。
そして天童さんの文章って、1枚1枚、全て手漉きで作っている和紙のように、静かに丁寧に言葉を選んで繋げてあるので、濃度・密度がハンパないのです。
約14年くらい、逃げに逃げてきた本を全力で読みきるのってはじめてかもしれない。
これ、本来は『ミステリー小説』だったんですね。帯を見て初めて気付いたよ。
ネタバレになる・・・かも。
だーっと最後まで1回読みきった時の感想。
・・・『聡志がウザイ』。
もうしょっぱなから聡志がうっとおしい。(酷い)
優希の母:志穂もしょっぱなからラストまで安定のうっとおしさ。(酷い)
出てくる度に「あああもうやめてー!もうあんたらどっか行って!」てなる。
だがこの2人の言動は、わたしには『実際にあるある過ぎ』て、ひとごとじゃないー。
ぜんぜんひとごとじゃないーーーーーーーーー。
今、現在も続いてるよーーーー。もうこれ以上聞きたくないよーーーーーー。
TVドラマ版のほうでもこの2人のシーンはとにかくきつかったです・・・。
聡志と志穂の言動は、わたしには『虐待やDVについての世間の反応代表』に思えました。
虐待やDVはどうもどこかでは起きているらしい。
だけど、自分や、自分の家族には起きないはず。
身近で起きてると信じたくない。信じられない。
わが子を性的対象にするなどおぞましい。
そういった面を、聡志と志穂が代表して語っている感じがしました。
優希の父:雄作。
恐らくこの物語の中で一番憎まれ、嫌われるはずの人物ですが。
「なぜ自分が優希をそこまで求めるのか?」を、自覚してて、語りまくります。
ここまで動機を語ってくれる加害者はあんまり居ないかと思います。
確かに彼が優希にふりかざす自論は無茶苦茶だし、完全に『暴力』なんですが。
ここまで語られたらなんか予想してたよりキライじゃなくなってきちゃった。
うちは父も祖父もとにかく「しゃべらない・何考えてるのかわからない人たち」だったので、雄作ほどでなくてもいいから話をして欲しかったなぁとぼんやり思いました。
(まあ説明されてもアウトだけど。)
『生きていていい、と、誰もが言ってもらいたい』という、他者からの存在承認・存在肯定。
これはかなりハッキリとテーマとして描かれていますが。
『性暴力加害者は、性欲のはけ口を求めて加害者になるのではない』ということも物語の根底にあり、雄作だけでなく、他の登場人物の言動でも何度もふれられています。
また、優希、笙一郎、梁平は、形は違えど全員『性虐待(性暴力)サバイバー』です。
サバイバーやその周辺にいる人々が抱く「わたしのせい」という、付きまとい続ける罪悪感・自責の念も、それぞれの立ち位置から丁寧に描かれています。
そして「被害者(Victim)」から「生存者(Suviver)」へ。
さらにその先の「成長し、サバイバーであることを主張する必要のなくなった人=スライバー(Thriver)」である岸川夫妻の姿は、わたしには救いでした。
(ドラマでは岸川夫人の告白のシーンを大きく扱っていましたが、原作ではもうすこしだけ出番があります。)
岸川夫妻とは真逆の道に踏み込んでいってしまう笙一郎も、単によく言われる「被虐待者だった人間は虐待を繰り返す」といった風評そのままのような形では描かれていません。
ただちょっと印象として弱かったので、風評そのままと捉えられそうな部分もあるのが残念。あんだけ物語の中で笙一郎は動き回っているのに。
笙一郎とまり子の再会で、笙一郎が苦悩する姿は、わたしには他人事じゃなく苦しかったです。
今でこそ母と話が少しずつでも出来るようになってきたけれど、もしも完全に距離をとり拒絶したままであったなら。笙一郎とまり子のようなかたちでの再会はあり得たからです。
最期に母に「お母ちゃん」ではなく「まり子」と命令するシーンは、まり子の過去も露見させます。
ここ以外でもまり子のトラウマはちょろちょろ出てきますけど、ここで「まり子」と笙一郎に言わせるところ、ほんとうに凄いと思いました。
伊島刑事の台詞も原作の方が多いし、かなり刺さる台詞が盛りだくさんです。
わたしは、天童さんの虐待という事象に対する取材力や、理解への意欲はとことんまで真摯なものだと思いました。
優希が看護婦をしていますが、その働く姿の背景にあるものは『本来なら優希が背負わなくてもよいはずの罪の贖罪』です。
これが、わたしにはものすごい共感できて苦しくて痛かった。
わたしも未だに「わたしがもしも色々なことに気付かないままやり過ごせていたなら、こんなことにはならなかった」と思う時がたくさんあります。
そこを敢えて、そして言語化して描いてくださったことに感謝です。
自分で説明したくてもうまく説明できない部分を、優希たちが語ってくれているところがものすごくたくさんあるので、思わず再読しながらいっぱい付箋を貼ってしまった。
小説としての欠点というか。
違和感がある部分、それ要るの?ていう点も、確かにありました。
・もうミステリーという部分を抜いちゃっていいような気がします。
ヒューマンドラマでよかったんじゃない?
・ちょっと色々欲張りすぎな設定。
(虐待の加害者・被害者両方の心情の描写に加えて、介護・看護問題ももりこんでいるところ)
・殺害されてしまう虐待する親たちはサブキャラのはずなのにあまりにも描写に密度があるので、メイン人物との差が少なく感じました。ここまで書くなら奈緒子のこともっと書いて!て思った。
・12歳の3人があまりにも大人びた会話をしていること。
・12歳であれだけの人間観察・分析ができちゃう笙一郎が、なぜ自分の衝動に対しての振り返りをしないまま犯行を続けてしまうのか。
・笙一郎は優希の家族のことだけでなく、梁平と奈緒子の関係や、まり子の介護にも走り回ります。あまりにも何でもかんでも笙一郎が絡んでるので、梁平の姿が中盤あたりから居るのか居ないのかわかんない人になっていること。
・志穂の「優希を救うため」「母としてできること」が、離婚などではなくてなぜ「雄作殺害」と、「自殺」なのか。
・聡志の放火はまだ理解できたけれど、聡志の逃亡と事故死は必要あったのか。
・奈緒子の孤独感は共感できたけれど、奈緒子の描写が他の人物に比べて著しく少ないのでよく分からない人になってしまってる。
・梁平が奈緒子の死に「自分の責任」と罪悪感を抱きながらも、逃亡をしてまで優希の家に行って、雄作と同じような発言をしてしまうところ。
笙一郎を庇いたい・笙一郎に何があったのか聞きたいだけなら他にもやることあったんじゃなかろうか。
ドラマのDVDもやっとの思いで買いましたー。
たしかにすごく後味悪い話ともいえるし、救いが無い話と思う人もいるでしょうけども。
これから何回も、色んな時に再読する本になると思います。
天童さん、ほんとうにありがとうございます。
今、読んでるところ。⇒ ほぼ日刊イトイ新聞 - 天童荒太さんの見た光。