点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

破片。─ 20150531-0616

 

 

 

*ぽこん、ぽこんと湧いてきても、うまくかたちにならない。

 この泡に一致する『言葉』が、どれなのかわからない。

 ただ、わたしが使わないから一致させられないのか?

 四苦八苦してまで一致させねばならない理由なんてあるのか?

 

*言葉を探すのは、わたしのためだ。 自分のためだ。

 わたしはわたしのことが一番理解できない。わからない。得体が知れない。

 

*今、お腹が痛いのは。それは手術で癒着していた部分を剥がしてもらったから。

 痛い理由がはっきりしている。わかりやすい。

 でもこんなふうにいつでもわかりやすい理由があるわけじゃない。

 

 自分だけが納得できる、腑に落ちる、何か。

 大丈夫じゃない時ほど、尚更。

 大丈夫なはずと自分に言えるようにするために。

 泡の魚拓のようなものを、言葉でとるのだ。

 

 

 

*「それでも、生きてゆく」というドラマを、わたしはずっと3月11日の震災の話なのだと思っていました。

『途切れない支援を被害者と考える会』さんの「被害者ノート」を読ませてもらっているさなかに、ある事件の加害者が手記を出したというニュースもネットで知りました。

 

被害にあったら警察に行けばいい。犯人を捕まえてもらって、裁判すればいい。

そういう言葉を、わたしも、今までに何度も何度も言われてきました。

けれど、警察は刑法という国のルールに反した人を捕まえる機関であって、刑事裁判は国のルールに反したことに対する罰を決めるものです。

 

 

「この人はこんなふうに刑法違反をした可能性が高いですよ」と説明する材料を集めるために警察や検察は動きます。

被害届を出すだけでも、きちんと話をする気ではいるけれど心の準備をしたいといったこちらの都合は通じなかったりします。

そんな時、被害者や被害者家族は、加害者家族は、どう日々を過ごしているのだろう?

 

『犯人を捕まえるカッコイイ刑事さん』よりも身近に居るはずなのは、起きた事件の当事者とその周辺のひとたちなのですよね。

 警察や刑事が出てくるドラマはたくさんあるけれど、そういう部分を丁寧に扱っている物語ってなかなか出会えない。

 

それでも、生きてゆく」は、一気に最終話まで見てしまったドラマでした。

 

物語の後半、被害者の家族:大竹しのぶさんと、加害者の家族:風吹ジュンさんが対面で話をするシーンが好きです。

両家族のそれぞれが、それぞれの思いで生きていて。

当事者ではない人(ドラマの中だとお習字の先生など)の一方的な『世間の声』に、両家族ともに傷ついていく。

そういう様子も丁寧に描かれていると感じました。

 

 

わたしがサバイバーの体験記を読んだ後に感じた「救い」が、当事者じゃない人たちには「救いが無いと感じた」と言われたことがありました。

 

このドラマも救いがどこにもないようにも思えます。

いや、そもそもこういった事において、当事者、そして第三者が全員一致した形での「救い」など無いものなのかもしれません。

 

何が救いになるのか。何が償いになるのか。何が希望になるのか。

答えがわからなくても、それでも、生きてゆく

生きてゆく中で、見出していくしかないのだと。

そう信じて、今を繋いでいくしかないのが、わたしです。

 

それが正しいとか、そういうのではなくて。

わたしに出来ることはそれしかないし、きっと、それで充分なのだと。

そう信じたいです。