点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

2010/09/13 

あくまでわたし個人の意見ですので、何かありましたらわたし宛に直接メール・コメントでお願いします。 

 

 

 

 

自殺が増えるということは、自死遺族がその数倍も増えるということと同じ意味を持ちます。

 

 

自死遺族となって、まず苦しむのは「助けられたのではないのか?」ということ。

 

もし、あの時~していれば、という『もしも』に縛り付けられます。

 

亡くなった人が身近であればあるほど、自死遺族は周囲から責められます。

 

何故、助けなかったのかと。何故、気付かなかったのかと。何故、止めなかったのかと。

 

 

わたしの場合、父はどこに住んでいるのかもわからない状態であったのと、父との間に確執があったため、ショックではありましたが、父が自殺したことについて「何故助けられなかったのか?」と、人から責められることは、あまりありませんでした。

 

父が、それなりに人にも家族にも恨まれるようなことを散々してきた人だったというのもあります。

 

でもそれでも、やっぱり「何で、生きててくれなかったんだ。」という憤りも悲しみもそれなりにあります。

死ぬ事で、父はあの当時、追い込まれた自分の立場から逃げられた。

 

それが父にとっては唯一の選択だったのでしょう。

けれど、わたしがまず感じたのは「また父に見捨てられた」という強い『見捨てられ感』でした。

 

DV被害にあっていた頃も、中学・高校の頃に痴漢被害といじめにあっていた時も、わたしは父に助けを求めました。

でも、それをことごとく「まぁ、そんなこともあるさ」と片付けた父。

うん。確かに、この世にはそんなこともある。 

だけど、あのギリギリの状態で助けを求めた手を振り払われたという傷は、今でもわたしの中にあります。

 

友人達の自殺は、彼らがわたしにとっては生きるという面での戦友でもあったので、自責観念は酷かった。

もう一回多く、彼らに会いに行っていたら、と、何度も何度も悔やみました。

 

ご遺族と連絡を取った時、一方のご遺族には責められました。なんで止めてくれなかったのか、と。

 

もう一方のご家族には、「あなたがうちの子の為に一生懸命動いてくれたことを感謝している。だからあなたは生きていてね。」と言われました。

(今から死ぬとメールが来て、一晩中探し回ったり、診てくれる病院を一緒に探したりと、いろいろあったからかもしれない)

 

後を追おうとも思いました。

自殺を図って、危篤状態にまではなれたけど、何故かわたしはそのまま目を覚ましてしまいました。

 

でも、逝った彼らに「あなたは生きて。」と言われたことを思い出すと、そう言われたから逝けないとも思うし、逆に、でもあんたたちはそっちにいるじゃないかとも考えます。

 

何年も経った今でもそう思いますし、そうやって思い出して悲しむことを、わたしはおかしいとも恥ずかしいとも思いません。

それくらい、彼らの存在が、わたしの中で大きかったということだから。

 

父の自殺も、友人達の自殺も、わたしの中でくっきりと傷として残っています。

 

その傷について、いくら周りに「もう忘れなさい」「もう過ぎたことだ。」と言われようと、それはあくまでも『第三者の意見と気持ち』であって、『わたし自身の意見と気持ち』ではない。

 

逝った人を偲ぶことを止める権利は、誰にもありません。

そして、親戚とか近所の人とか、そういう第三者が自死遺族を責める権利もありません。

 

物理的にどんなに近いところに居たとしても、自殺を選ぶと決めたら、その人は何とか死ねるように対策を練る。
気付かれないように。死ねるまでに誰にも見つからないように。
それこそ、一世一代の大芝居を打ちます。気付けなくて当たり前のような芝居を。

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【今、自死遺族となり、自分のせいで家族や友人を死なせたと思いつめている方へ。】

 

あなたは、その人に「死ね」と言いましたか? 「死ぬべきだ」と脅しましたか?

 

死ねるために必要なものを準備してあげましたか? 彼らの抱えていた苦しみを、嘲笑いましたか? 

病気であった場合、その人が良くなろうとするのを故意に邪魔しましたか?

 

生きていてもらいたいために、あなたは彼らに対して何も努力しませんでしたか?

 

もしも、あなたがたが努力もせず、直接その人を死ぬべきところまで故意に追い込んだとしたら、あなたは周りに責められても仕方がないかもしれない。

 

でもそうじゃないのなら、あなたはあなたを責めなくていい。
その人が確かに生きていたということを、覚えていれば、もうそれでいい。
あなたが殺したのではありません。 言葉どおり、彼らが彼ら自身を殺したのだから。

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【今、死にたい人へ。】

 

わたしもまだ死にたくなる人間です、だから、自殺を選ぶなと偉そうに『自殺防止』を叫ぶつもりはありません。 そんな権利はわたしにありません。

 

ただ未遂で生き返ってしまった人間として、そして自死遺族となってみてわかったことだけを書きます。

 

誰も理解してくれない、という人。

あなたは家族や知人などに、1度でも理解を求めるために本気で喧嘩したことはありますか?

取っ組み合いするほど喧嘩して、「これだけはわかってくれ」と喚いたことはありますか?

 

あなたの苦しみを理解するにあたって、具体的にあなたの気持ちを相手に示したことがありますか?

 

こういうところがイヤだ、こういう理由で死にたい、等、どうせ死を選ぶのなら、一回くらい本気で理解して欲しいと思う相手に怒ってからでもいいじゃないですか。

 

自殺が卑怯といわれるのは、何にも言わず、周りの人との関係を死という選択で一方的に断ち切るからだと思います。

 

死なれてしまったら、あなた以外の誰も、あなたが何について困ってたのか、苦しんでたのか、何をして欲しかったのか、全部わからないままです。

 

遺書に書いたとしても、あなたが生きてそこに居なければ、詳しく説明を聞きたくても聞けない。

 

問題の解決策があなただけでは思いつかなくても、もしかしたら家族の誰か、知人の誰かが知っていて、打つ手が残っているかもしれない。

 

何にも言わないままだと、あなただけでなく、周りもわからないんです。

どうにかなることなのかもわからないし、何か周りができることなのかどうかもわからない。

そのままあなたについて何もかも永遠の謎として、突然放り出される人々。それが自死遺族です。

 

話したところで、どうせ、と考えている人も沢山居ると思います。

 

でも話してみないと、何も変わらないし、どうにもならないです。それだけは確かです。

 

そしてどうせ話すなら、自殺サイトの自殺希望者に話すよりも、現状を変えられるかもしれない相談機関をすすめます。

このBlogTOPページ、それとわたしのTwitterDVや虐待を受けている人向けの相談窓口をリツイートしたり、リンクを貼ったりしていますので覗いてください。

(フォローはしなくていいです。たいしたことつぶやいてないんで。)

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【自殺サイトの管理人様へ。】

 

自殺サイトがあることで、自殺願望のある人々のこころの居場所ができるのは、すごくありがたいことです。

死にたいと口に出していい場所があることは、それすら言えずに苦しんでいる人にとって、ものすごく意味があるから。

 

でも、どうせ自殺サイトを作るなら、「やっぱりもう少し生きて、何か変えられるかもしれない」と思える情報やサイトなどのリンクを張ってほしいと個人的に思います。

 

URLを自由に貼れるようにすると、出会い系サイトやアダルトサイトへのリンクを貼られてしまう危険性があるのでできないのなら、有志でリンク集を作ることを検討していただけたらと思います。