点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

20101009 Twitterでつぶやいていたこと。

ナイフはわたしにとって『わたしを裁くもの』でした。

大きいカッターナイフとか、あと彫刻やってたから小刀を、ずっと持ってた。

例えば誰かが怒ったら、もうそれはわたしのせいに『決まって』たから。ごめんなさいを声で言って、その後、わたしがわたしを裁く。わたしにとって自傷は罰と裁きだった。

そのうち切れば切るほど何もかもうまく流れなくなってきて、そんでそういうときに同じ切ってる人たちと知り合って。仲良くなった子の傷を見たときに、あたしはもうこの子に切って欲しくないと思った。自分はまだ切ってるのに相手には切って欲しくなかった。勝手だなと思って、切るのをやめる決心をした。

 みんな隠れて切ってると思うんだけど、あたしは一度、人の目の前でガッツリ切ってしまったことがあって。それはその人に対する怒りとその人に伝わるように喋れなかった自分が許せなくてやっちゃって。

そん時に、だめだ、切るっていうのは自分を切ってるけど実は周りの人を切ってることにもなると思った。自分が傷つくことに対しては苦しくても受け入れられた。

それよりも自分以外の大事な人が傷つくのは耐えられなかった。

今、切った事で、あたしはまた誰かを、自分が好きな人達の誰かの気持ちを切りつけたんじゃないか。誰にも傷ついて欲しくないと思っているくせに。

やめる決心をした時、ずっと使ってた刃物を全部新聞紙でぐるぐる巻きにして、コンビニのゴミ箱に捨てた。切りたい衝動と早く自分を裁かなくてはという焦りで、何度かリバウンドしたけれど、もう切らなくなった。

 遠いところに住んでる友達には、年に1,2回しか会えなかったから。会った時にその子たちに「おねぇ。傷、全然無い。何で?」ていわれた。

「おねぇ、もう切らんから。だから、あたしはあんたに切らないでって言うよ。あんたが切ったら、あたしが痛い。切るってそういうことだと思った。」と話した。

 

 んーと。小学生の高学年の時に一番好きな祖父が死んで。そこでもうわたしにとって世界は一回終わった。わたしを愛してくれてるのは祖父だけだから、祖父がいなくなった今、もう誰もわたしを愛さないと思ってた。それから家族からの虐待や知らん人からの性被害があって。

性被害も自分が悪い、自分がその人達に笑顔で接したせいだと思ってた。だから自分を罰しないといけないって思い込んでた。中学生くらいの時から切ってました。ものすごく酷くなったのは、DV被害の最後のほうから。

実際、あたしが切らなくなっていったことで、切ってた人達の中から「もう切らないで生きていきたい」という声があって。で、とりあえずあたしの真似をしてみてって伝えた。会った時に誰かの腕に傷があったら、できるだけ手当てをしていた。  「大丈夫だよ」って言いたかったから、目の前で泣けなかった。

 

 誰かの傷の手当てしに出かけて、そんでバイバイまたね、って別れてからしか、泣けなかった。その子達の前で泣いたら、その子達がまた自分自身を責めて切ってしまうと思って。そうやってるうちにどんどん「おねぇは強い」っていう変な役をやり続けるしかなくなって、苦しかった。

 その自傷繋がりの中で、かなり深い付き合いをしてた一人が自殺して。それをキッカケに「もうあたしは『強いおねぇ』って言われたくない」と、周りの人に言えた。

強いんじゃなくて、とにかくその場で踏ん張っていただけで、そのしんどさは後で何倍にもなってあたしを襲うから。もう苦しいって告白した。

 変な自己評価の仕方だなぁと思うんですけど。まだ、自分がああいう中を生き抜いた人間で、それは誇りに思っていいはず、っていうのを、自分に何回も何回も言い聞かせないと、「何でまだ生きてるんだろう?」になっちゃうんです。

 

これからもたくさん、サバイバーである人達に会うと思うし、会ったら「あなたはダメなんじゃなくてすごいんだよ」って心から言えるように。人には言えるんだけど、自分には言えないって、その矛盾がずっとあるから、書き殴りのテキストでは自分に言い聞かせるように書いてます。


 誰かに言いたい内容で、でも自分も心に刻んでおかないといけないことってあるから。だから書き殴りテキストでは『君』と『あたし』は同じ位置の人間。

 

 今も全身に傷跡はあって。ただ運良く赤いんじゃなく白いケロイド(?)になってるから、パッと見はわかんない。でも日焼けするとすごい目立つ。切ってる人がまだまだ沢山いて。君もあたしもおんなじだから。だからひとりで切って、ひとりで傷ついて、小さくなって隠れてなくていいよ、って言いたい。

 あたしも自分にそう言いたいし、人にそう言われたら嬉しいから。

そんならあたしが自分からやりはじめればいいんだっていうのが、いろんなところで出てくる。普段、見えてないときがあるけど。

 Blogに書いてますけど。摂食障害自傷行為と何ら変わらんから。自分を痛めつけるという点でも、自分が大事と思えないという点でも。そしたら、好きな人できてこっち見て欲しいってなった時、傷だらけで、汚いって自分で思ってるような人間をよろしくお願いします、って言うの、身勝手だなって。

 自分を痛めつけることで、やっと今日を、今を生きるための自分でいられる。その感覚を知ってるし、そこにとどまる限り、摂食障害自傷行為も依存症も回復には向かえない。10年近くそれらと向き合ってみて、確信があるから、言える。そこから離れないと、回復は無い。

 切るのが悪いことなんじゃないんです。そこで行き詰ってる人、いっぱい居ると思う。周りは止めようとするか、黙認するかのどちらかだと思うし。だから自分は間違った悪い事をしてないと生きられない、と思い込んでいる人が沢山居る。そうじゃなくてホントは誰かに触れて欲しいんです。

すごくストレートに言うと、誰かに愛されたい、誰かに必要とされたいっていう気持ちが大きすぎて、自分でもどうその気持ちを扱っていいのかわからない。そこに更にこんな自分じゃダメだよね、っていう自己評価の低さも深く根を張ってるから、もつれてしまって苦しい。

 自傷してなくても、摂食障害じゃなくても、誰でもみんな、誰かに優しくされたいし、抱きしめてもらいたかったりすると思う。その欲はすごく当たり前のはずなんだけど、そういう欲を持つ事自体が『罪』で『悪』だと信じ切っている。それが降り積もって、たまたま自傷摂食障害やうつとして表に出ただけ。

 謙虚さ、と、自己卑下の履き違えなのかもしれません。でも自傷とかに至るほどの『自分という人間に対する嫌悪』って、自分ひとりだけ、ではそうそう生まれてこないと思う。どこかで(別に家族や学校に限らず)その人にとっての大ダメージが、まだ血を流しているからこその、嫌悪。

 よく、鬱病とか抱えた人は、これから先もずっと闇が続くと思っています。(わたしもそのひとり)落ちてる時は闇しかないから。

でも、闇があるってことは、どっかに針の先ほどでも光があるはず。それは人それぞれ持ってるところが違うから分かりにくいだけで。

 ネガティヴさ・不幸な出来事を物凄く嫌うと、いつまでたっても光は見えない。闇を探し続けるだけになると、光があっても気付けないから。それこそ、わたしにとって『泣ける』ということは、闇と光を同時に見た瞬間です。

人間は慣れの動物だと思ってます。だから慣れ親しんだところから、知らないところに向かうドアをバーン!と開けて、一歩踏み出すのが怖い。踏み出した先が安全なのかどうか、わからないから。でも踏み出さないと安全かどうかなんかわからない。DVから抜けるのも自傷・摂食等から抜けるのも勇気だけ。

 自傷摂食障害や依存症からの回復に間違いなく必要なのは、『意志の強さ』ではないです。『慣れたやり方から、慣れてないやり方に少しずつシフトしていく』『シフトし続けていく』、その最初の1歩の勇気だと思います。