点線。破線。 

いちサバイバーの思ったこと、考えてることのキロク。

アンテナ。



母が、私との関係を再構築したいと言い、とにかくやってみようと話し合ってから、もう6年近い年月が経った。

父のことについて。はじめて母の口から「話すのが怖い。」という言葉を聞けた。
避けているのは分かっていた。
 
何とかして「過ぎ去った嫌な出来事」として、二度と開けない箱に入れ、鍵をかけ。
日常の中でふいにその箱の存在に気づいてしまわないよう、心のずっとずっと奥へ押しやっている。
母の、本当の声を聞けたと思った。


私が自分の症状と向き合うしかない時。フラッシュバックで苦しむ時。
母はいつも父のことではなく、必ず、私の元夫について、懸命に責める。
「気が付いていたら」と、ひたすら私の結婚と離婚についてだけ、母は語る。
でもその裏に、父への母の憎しみや悲しみが一緒になって動いているのも、なんとなく感じている。
父に悪態をつくことを、母は早々に切り上げようとする。
そうしないと母は母で、 自分を保って居られなかった、と。

ずいぶん後になってからだけれど。
母は私に何度か「体は大丈夫なのか?」と問うていたらしい。
けれどそのころ、私は『何ひとつ問題が起きたりしていない』といういつもの顔を維持することで自分を保っていた。

それは私の幼いころからの癖そのもので、同時に、母や祖母も同じような癖を持って居ることに気づいた。
気づいて、それを受け入れるまで、とんでもない時間がかかってしまったけれど。

まさか、祖母の骨折と認知症の悪化という事態を通すことで、こんな話を母と話せる機会がやってくるとは思ってもみなかった。

そして、何をやっても母と噛み合わず、足掻きたおしてみて、この数週間でやっと実感としてわかったことがある。

私は、母や祖母の無関心さや無神経さに幻滅していた。
実際、母や祖母の言動は、私や弟だけでなく、それ以外の人達から見ても首をかしげるようなものがいくつもある。

私は今まで生きてきた中で、周囲のひとたち(母や父も含め)の機嫌や、気配や、雰囲気を必死で感じとって先手を打ってきた。
何とかして攻撃対象にならないよう、自己防衛する癖がついていた。
その癖は、私にとってはもはや当たり前の危険予測アンテナとして、そして生きるための術として動いている。

けれどそのアンテナの感度は、母や祖母から見ると、『自分たちには必要のない感度』だったのだ。

私はこのアンテナを「誰もが持っていて当然のもの」だと思っていた。

どんくさくて何も取り柄のない愚図な私が持って居るくらいだから、他の人たちはもっと自分のアンテナを活用していて、だからいきいきと生きているのだとそう信じ込んできた。

今でもその考えは、しょっちゅう頭の中を支配していく。
特に、色々なことに疲れ果てた時は、もうそれ一色になってしまう。

どんなに頑張っても、私は、このアンテナを、『楽しく生きていく方向』に傾けていられない。
いっそもう何も感じないようになってしまってほしいとさえ思う。

けれど、まだ、諦めてしまいたくない、と、ほんの少しだけれどもハッキリと、そう、思えるようになった。

今はきっと、それだけでもう充分だと、そう信じたい。