これもうつ病・各依存症など全てにあてはまる内容です。
うつならば、ひどく落ちてしまっている時、不眠症なら眠れない時、摂食なら食べすぎ・吐いてしまったなど、細かくかくと際限ないので、共通してる部分だけ抜き出します。
病状、症状は、たしかに自分にとって喜ばしいものではないと思います。
うんざりするし、そのせいで思うように動けないし、周りからあれこれ言われるし。
でも、症状・病状を敵視し、それに抗おうとすればするほど、あなたの中でその嫌なものは存在感を増していきませんか?
病状・症状は、あなた自身の全てではありません。
あなたの一部分にしかすぎない。
一部分なのにそれを膨らませていっているのは、自分自身だったりしませんか?
不眠症が酷かったころ、わたしにとって【眠れたか?眠れなかったか?】が1日の全てでした。
自傷行為も【切ったか、切らずに済んだか】が1日の全てでした。
それが365日、1年、2年となるにつれ、自分の生きている毎日は何なんだろう?と疑問に思いました。
「なんでわたしの毎日は何もかも病状と症状一色になってるんだろう?そんなの楽しいわけがないじゃないか。」と気付いた時、自分自身をより苦しめているのは自分ではないのかと思うようになりました。
病状・症状と向き合うのも、とても大事なことです。
そこには必ず、自分が意識していないものが隠れているから。
それをちゃんと手にとって見つめなおすことも回復には必要です。
けれど、それをただただ排除しよう、敵とみなして戦おうとすると、敵だらけの日々になっていく。
そう気付いてから、わたしは『闘病』するのをやめました。
戦っても、敵視しても、もう既にわたしの一部としてあるのなら、飲み込んで、自分でコントロールのできる部分はコントロールしてみようと努力していいんじゃないのか?
自分自身だけではどうにもならないところは、医者や薬や、カウンセラーや、友人達の力と知恵を借りよう。
その方がずっとずっと今よりも生きやすいかもしれない。
このキッカケをくれたのは、一時期通っていたAC(アダルトチルドレン)の自助グループでした。
多分どこでも使われてるかも。
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける賢さを
これの意味がはじめは全然わかんなかった。 何のオマジナイ?と思ってた。
でもこの言葉と、自分の日常がリンクした時に「ああ!そういうことかぁ!」と思えました。
過呼吸の発作は、PDであるから自分の一部として受け入れる。
頓用薬は、事前に発作を抑えられる薬だから、発作が来るかも、と思ったときに利用する。
もし発作が来てしまっても、それはそれで受け入れる。
せめて「何に自分は不安を感じて発作に至ったのか?」だけ、余裕にある時に辿っておく。
そうすれば次につながっていくから、頓用を飲まなくても持ってるだけで「どうにもならなくなったらこれがあるさ。」と気楽になっていく。
そうすると発作が減ってきた。
一日中、症状・病状に怯えているよりも、はるかに生きやすくなりました。
例えば、キライな映画を一日中見なくていいでしょ?
間に好きな映画を入れたいし、できれば好きな映画だけ見たい。
でも今はキライな映画も見なくちゃいけなかったりする時がある。
それが病状・症状が出た時。
んじゃ、その時だけしょーがないから見る。
それを見なくちゃいけなかった理由の整理だけして、あとは好きな映画を見ていいんです。
多分、『病は気から』っていうのは、この部分を指しているんだと思う。